高校受験①

 中学校一年生まで塾も受験も無縁の生活を謳歌していた私でした。


小学生の時の知識のおかげで、テストの点数も困ることはなく、塾という競争がないからか母も一時期おだやかになりました。


が、しかしやはりやってきました塾。


あんなに塾にいかなくていいと言っていたのに、中学一年生半ばに連れていかれました。
日能研は中学受験専門なので、またもや地方の高校受験専門塾に。


もちろんいきたくないと抵抗しましたが、私の生活、主にバスケットボールシューズ代や、ユニフォーム台を捻出しているのは親なわけで


また中学校一年の半年間で苦い受験の記憶が少しうすれてしまった私はほいほいとまた受験の荊の道に入ってしまったのです。


高校受験の塾もまたもや成績でクラス分けされていました。
しかも今度はトップクラスだけ、授業は土日。トップクラスだけ別の講師陣と、えらい他のクラスと気合のいれかたが違う塾でした。


日能研のトップクラスだったというだけであっさりと何の試験もなくトップクラスにいれられた私。この時ばかりは日能研のトップにいてよかったと思いました。


最初の授業でまたもや味わいました。遅れている感じ。
もちろんその塾のトップクラスにいる子たちは大体中学受験からその塾にいる人たちばかりで、中学一年生のはじめからすすんだ授業をしているわけです。


なので最初の数学の時間で、問題を解けといわれたとき私は素直に小学校の知識、鶴亀算をつかって解こうとしましたが、たちうちができない。
そこで初めてXとYが出現したのです。


鶴亀算というベースをしっていた私はいわゆる一次関数、二次関数の世界は非常に簡単でした。公文で計算のスピードも磨かれていたし、中学受験で散々やった平面図形なんかもX、Yをつかえば一瞬でとけるし、あんなに苦手としていた算数が、数学になってからというもの得意分野になりました。


ということで、小学校のころ算数が苦手だからといって文系というわけでもないし、算数から数学になるとガラッと変わるので、あっさり得意分野になってしまったりします。もっとも中学受験の算数がベースにあったからこそ、数学が得意になったのかもしれませんが。


塾がスタートしましたが、国語は相変わらず得意だし、数学も得意になったし特に困ることもない出だしでした。


が、出現したのです。ライバルが。
もちろん私にとってはどうでもいいのですが、親にとってのライバルが。

中学入学

 あっさりとした中学受験が終わり、晴れて中学生になりました。


宣言通りバスケ部に入り、小学生時代からプレーしていた自分は即レギュラーになりました。まさに順風満帆の中学生活をしていました。


私の中学は、小学校からの持ち上がり組が半分、中学受験組が半分の学校でした。
小学校からの持ち上がり組は中学受験をしていない分、やはりテストの成績は中学受験組のほうが上位をしめていた気がします。


もっとも持ち上がり組、中学受験組と意識していたのは中学校一年生の半ばまでで、あとはごっちゃになりよくわからなくなってきます。


中学校最初のテストでは、初めて学校のテストで成績順がつきました。
といっても明確に何位とわかるわけではなく、何点以上が何人というような記載をされていますが、高得点をとれば人数が少なくなっていくので、おのずと何位かわかります。
中学受験でトップクラスにいた杵柄で、だいたい一番上の得点帯にいました。


中学校一年生なかばまでは塾にはいることもなく、のびのびと楽しい学校生活を送っていました。


相も変わらず授業を聞く習慣はありませんでしたが、中学準備講座でやった内容と、テスト前の浅い勉強で、全然なんとかなっていました。


中学に入って新しくはいってきた教科といえば英語ですが、私はすでに英検三級まで中学入学までに取得しており、中学一年生で英検準二級を取得したため、まったく困ることはありませんでした。


英検は公文の影響で小学校から受験していました。
公文では英語のプリントをとかせるだけでなく、英検を受験させたり、スピーチコンテストにだしたりと、私の教室が英語教育に熱心だったせいかもしれませんが、かなり私の英語力を後押ししてくれました。


公文とは別にネイティブの先生たちと話をするいわゆる英語教室みたいなものにも通っていましたが、そこではハロウィンのイベントや英語劇など、楽しく!英語を話せるようになろう!みたいなものがメインであって、
日本の受験教育などは一切ありませんでした。


話せるようにはなるかもしれないし、最終的な社会の英語力の成長にはつながるかもしれませんが、日本で学力を審査する英語は所詮 文法、読み書きであって、スピーチ能力は無視です。
そういう点では、小さいころから、読み書き、文法、リスニングに特化した、英検を受験させられていたので、受験英語には強かったです。
英語教室に通ってもそういうものは勉強しないので。


英語にも特に困らないし、中学一年生までは青春を謳歌していました。

中学受験⑪

 バスケと塾を両方やっていた私ですが、やはり受験シーズンになると両立は難しくなってきました。


塾の授業、テストが優先であったため、なかなか練習に参加できませんでした。


バスケはチームプレイ。なかなか練習にこない私はあまり試合にでれなくなりました。
小学校四年生からやっていたため、小学校六年生になるとレギュラーは当たり前のポジションでした。
レギュラー発表の練習に遅れていくと、私にわたされたのは、補欠の番号。それまでレギュラーが当たり前の私にとって非常にショックでした。


なんですきでもない、なんの目標もない塾に無理やりいかされて、大好きなバスケの試合にでれないんだろう。


この環境で、勉強が好きになる要素なんかなく、完全に親におこられないよう、バスケをとられないようただただ機械的に勉強していました。
親の見張っていない場所で勉強する気になんかさらさらありませんでした。


結局、中学校受験は二校受験。もちろん私の実力では余裕で受かるとこしか受験していないため、合格発表の緊張もなにもありませんでした。
合格の喜びもなく、ただ中学生になったら塾が終わってバスケ部に入れるということしか考えていませんでした。


合格後には晴れて自由!塾にいかなくてもすむし、バスケも自由にできる!とはなりませんでした。


日能研はご丁寧にも中学準備講座のような授業がありました。
そこで初めてXやらYやらの式に出会いました。


合格後もある授業にうんざりしていましたが、ここでの中学準備講座はのちのち意外に役に立ちました。


塾でトップクラス、トップレベルを求められながら、地方の中学しか受験していないため、怒られ苦しめられた割にはあまりにもあっさり終わった中学受験でした。


なんのために必死にもがいて勉強したのか、こんな中学にはいるためか。
ますます勉強している意義がわからなくなります。